「ひとりの自分に目を注ぐ神」  04.05.23
                     ルカ15:1〜10

 神さまに創られ、命を与えられているのが、私たち一人一人です。
 そのような神さまの前で、神さまと向き合い、神さまと関わりながら
生きることが、創られた人間の本来の自然な姿です。
 そこにこそ、健やかで、真実な生き方があります。
 人間は、この本来の姿を失った状態では、どんなに幸せな生き方を
しているように見えたとしても、真実な生き方を失っているのです。

 本来の状態を失った人のことを聖書は「罪人」といい、イエスさまは
「見失った羊」と呼びます。
 見失った羊は、いなくなったことを責められているのではありません。
 「なんとしてでも見つけ出し、本来の所に戻したい」との思いを向けられて
いる存在です。 それがイエスさまの罪人の見え方です。
 イエスさまは、罪人へ心を注がれます。 それは、見失った羊しか
見えないほどです。100匹の中の一匹ではなく、その一匹がイエスさまに
とっては問題なのです。

 イエスさまのご愛の深さと、その集中の姿があります。
 99匹の羊を残して1匹を捜しに出かけるというのは、ただ事ではありません。
 「野原」は、安全な所ではなく「荒れ野」でもあり、危険のある所です。
そんなことはしないものです。愚か者と言われ、羊飼いとしての信用を失う
危険もあります。しかし、イエスさまは、それをするのが当然かのように
おっしゃるのです。
 「キリストは、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして…」(フィリピ2:6)といわれる、イエスさまのお姿が
ここにもあらわされています。
 本来の所に戻った羊のことを、羊以上に、イエスさまと天が喜ぶと
おっしゃいます。
 本来の所で生きる幸いを、羊よりもずっとよく分かっているからです。

 
私たちは、このようなイエスさまの熱い思いによって捕らえていただき、
本来の姿を回復し、救いに入れられました。イエスさまと天の喜びという、
永遠の確かな喜びに包まれて、私たちは生かされています。
 そこに、私たち信仰者の大きな喜びがあります。